言葉選びを学ぶ
小中学校の頃の話をしたい。
義務教育を担当する教師は言葉選びに気をつけるべきだと思う。
ということを30歳手前になって改めて考える。
自分が小中学生の頃、いろいろな理由から言い返せなかっただけで、理不尽な怒り方をする教師っていたよね。
小学校の高学年にもなれば、そういう理不尽な説教って、理不尽であることも分かるし、先生側が間違っていることにも気づく。
それは子供の反省を阻害する原因になるし、親や学校外の大人の手間を増やすことにもなる。
具体例をあげよう。
私は小学校高学年のある日、担任不在の自習時間に前の席の友達(Aくん)に隣の席の友達(Bくん)と結託してイタズラをしていた。Aくんの反応が面白く、嫌がっていると分かっていたのにやめられなかった。
そこに見回りの教師2人がやってきて、Aくんは泣きながら自らの思いを訴える。名前が上がったのは私一人。
私が「他の人も…」と言った瞬間、教師から出たのは「他の人なんて関係ない!」の怒号。
もちろん私は悪い。しかし、一緒になってイタズラしていたBくんの悪事に関しては「関係ない」と暗に肯定している。
この時の私はもちろん自分が悪いことも、「他の人」を言い訳に使ったことで教師の心象をさらに悪くしたことも分かっていた。しかし、同じことをしていたBくんが「関係ない」わけがないことも分かっている。
この事件に関してはもちろん納得も反省もしなかった。上辺だけの謝罪をした上でAくんとは仲直りしたが、その教師2人のことは今だに嫌いだし尊敬できない。
歩道橋を使わず道路を横断したことを学童の指導員に叱られたときも同じ言い訳をした。
指導員は「他の人がやっているからやっていいことではない。ちゃんと自分で考えなさい」と言い、おやつの時間に全員に向けた注意喚起をした。
自分達の意見を聞いてもらえてることも分かり、説教に納得も反省もした私は少なくとも小学生の間は同じことをしなかった。
小学生はこの程度の間違いは判断できるという良い例だと思う。
そして、こういった教師の間違った怒り方(あえて叱り方とは言わない)は、私ではない例えばBくんの同じ過ちを誘発する。
私は「怒られたくない」から二度とやらないかもしれないが、「他の人は関係ない」のだからBくんは見つからなければ「関係ない」と考える。
これは私にとってもBくんにとっても良くない。
私は反省してないから「悪いことだから」ではなく「怒られたくないから」と過ちを繰り返さず、間違いを正されることはない。
Bくんは今回の説教には「関係ない」から、本人にとって悪事に入らず、見つからないように同じことを繰り返し、間違いを正される機会を逃す。
話は変わるが、言葉選びという意味ではもう一つ最悪の例があるので紹介したい。
私は中学校の部活動でほぼ丸2年間イジメられていた。
私の所属していたテニス部はイジメが常態化していて、イジメられている部員が転部すると他の部員が標的にされるというサイクルができていた。
私はイジメについては「どうでもいい」と考えており、コソコソと陰口を言われることも孤立させられることもあまり気にしていなかった。しかし、イジメがエスカレートするにつれてテニス自体をやらせてもらえなくなったため、学校外でテニスを始めて部活に参加することが減った。
そんな頃に調度良く?保護者会があり、母が教師・保護者の前でイジメについて話し、顧問にも実態が共有された。
後日、顧問は私を職員室に呼び出し「あなたが部活に来ないからイジメられてるんじゃないの?イジメられてるあなたにも原因があるのよ」と言い放った。もちろん私がイジメられ出したのは部活に行かなくなる前だ。部活にまともに顔を出したこともないクソ顧問のクセに良く言えたものだと思った。
その後なるべく部活に参加するようにしたが、結局その顧問が移動させられ他の教師に泣くほどこっぴどく説教させられるまで、表面上のイジメすらなくならなかったのは言うまでもない。
イジメる側にも「理由」はある。それはくだらないものかもしれないし、大人からみたら理由にもなってないものかもしれないが、なんの理由もなくイジメは発生しないと私は思っている。しかし、それはイジメられる側の「原因」では絶対にない。
また、どんな「理由」を並べ立てても犯罪が正当化されることがないのと同じく、たとえイジメが始まった「理由」が「イジメられる側の問題」であったとしてもイジメが正当化されることは決してない。そんなことは教師でなくとも分かる。
人にものを教える立場の人間がそんな当たり前すら理解できていなかったことに驚きを通り越して呆れた。
この教師は私の中で尊敬できない教師No.1の座を今だに守り抜いている。
いろいろなことを書いたが、要約すると…
・義務教育の教師は言葉選びをもっと学ぶべき
・大人の話に納得できない場合はその人に問題があるかもしれないから他の大人に意見を聞こう
・年上でも尊敬できない人の意見は聞かないが吉
一応尊敬している母の最低な言動や、大人になってから経験した尊敬できない老害についての話は今度しようと思う。
(書いてスッキリさせたいだけという説もある)
【悲報】パソコンが壊れた
お久しぶりでござる
何があったのか簡潔に説明しよう。
パソコンが壊れた。
今どきはスマホでもブログを書けるんだけど、時間がかかるじゃない?
そんなことない?いや、私は時間がかかる。
タイピングの速さが違う。
パソコンが壊れたことによって一気にすべてのモチベーションを奪われた私はブログの更新をやめた←
ブログの更新を再開したということはパソコンを新調したのかというとそうではない。
このたび、Bluetoothのキーボードを購入!!(パソコンを買え)
それはつまり普段から持ち歩いて使っているアプリをキーボード操作できるということ!
快適すぎるこのタイピング(伝われ)
来年の誕生日には新しいパソコンを買いたいなと計画中なので、それまではこのキーボードを堪能したいと思う。
目を逸らすことはできぬのだ
時計の話をしたい。
我が家の掛け時計の電池が切れた。
「普段ほとんど使ってないから大丈夫だろ」と切れた日は思った。
意外と知らず知らずのうちに見てるのだ。
ふとした時に見ては「あっ…」となる。
細かい時間を知りたいときはスマホで確認してるから掛け時計なんて見てない気になってたが、「今何時くらいかな」とか「何時くらいに出ればいいかな」とか大まかな時間を掛け時計で確認してたことに今更気づく。
朝の6時40分で止まったままの我が家の時計、早く電池を交換してあげなければ!
デジタル時計が主流(なのかは知らない)の今、30年ほど前から同じ時計を使い続けている我が家。
「時計は壊れたら壊れたで何とかなる」などと思っていたら痛い目見るなと気づかされた。
でも時計よりも重大な問題は冷蔵庫も30年近く買い換えていないという事実なのだが…
スポーツマン精神に則りー!(宣誓)
オリンピックについて語りたい。
現在開催中の冬季オリンピック。
黒い話が後を絶たない。
オリンピックは4年に1度しかなく、国別対抗の大会なので、ある程度は熱くなりすぎた視聴者の暴走といえるだろう。
しかし、毎回少なからず出てくるのが「疑惑の判定」「審判の不正」などである。
冬季は特に競技の種類が少なく、演技種目が花形の大会と言って過言ではない。
「疑惑の判定」は出やすいと言っていいだろう。
オリンピックで自分の国の選手が活躍してくれたらもちろん嬉しいし、メダルにギリギリ届かなかったらもちろん悔しい。
しかし、それは「公平なジャッジ」が前提にあるからだ。
スポーツ好きなら多少は感じるだろうし、その競技の関係者やファンなら共感してもらえると思う。
贔屓されて取ったメダルに嬉しさは感じないし、不当な扱いを受けてメダルを逃した時の感情は悔しさではなく怒りや悲しみだ。
2位の選手より上回ってると実感できないのに金メダルをもらっても、一番納得できないのは選手自身だろうし、それが感じ取れたらファンはやはり嬉しくない。それは自国の選手が1位だったとしても同じことだと思う。
スポーツを純粋に楽しむのに必要不可欠なものは「公平公正な審判」だろう。
「スポーツマン精神」という言葉には「スポーツに携わる人間すべて」が含まれるのではないだろうか。
選手の感情を考慮したルールが存在しないのに、審判だけが自分の感情を優先する権利があるなんてことは許されない。
あんまり審判が信用ならないと、選手と同じように顔やプロフィールをテレビに晒してもらいたくなる。
いや、そうすりゃよくね?